急性骨髄性白血病で人生初の入院〜闘病日記

44歳まで入院経験のなかった私の、急性骨髄性白血病闘病記

夜間増量作戦と、家族について ー入院17,18日目ー

こんにちは。
今日は連続で更新できました。

…って昨日の昼過ぎに調子がいいうちに書けるところまで書いて下書きしておいたのですが、結局その後また腹痛が出てきてだるくなってそのままダウン。。。
書き直しながらの本日更新となります。

 

ほんとに不思議と夜中になると腹痛と下血の強度と頻度が上がる感じで、毎晩眠れていない状態です。
ということで、麻薬の量を夜だけ限定的に少し増やす作戦を今夜から試してみることになりました。


まず、昨朝の「寝起き採血」。残念、昨日は維持でしたねー。
(左から、7/27→7/26→入院前)

白血球      0.2 ← 0.2 ←14.8(基準値3.3-8.6)
赤血球    2.48 ← 2.36 ← 4.34(基準値3.86-4.92)
ヘモグロビン   6.9 ← 6.6  ←  2.3(基準値11.6-14.8)
血小板      2.2 ← 2.8  ← 9.3(基準値15.8-34.8)
            

 あと、昨日載せ忘れてた今大事な炎症反応の数値。(左から、7/27→7/26→7/19)
CRP      13.39 ←  20.72   ← 0.09(基準値0-0.14)

白血球は維持だったけど、CRPが結構さがってきたのはうれしいなー。

 

微増はしていますがちょっと少ないそうなので、昨日はじめてヘモグロビン輸血もしました。ちょうど昨日血液製剤についてお話しましたが、今日やるヘモグロビンは、一般的な?赤いやつですね。

 

さてさて昨日、ちょっとしたことなんですが聞きたいことがあり母(71)へ電話をしてみたけど、いつも通り出ず。まあほんとたいしたことじゃないのでほっておいたら、数時間後に折り返しがありました。

昨日は、祖母(98)がデイサービスOFFの日。一日中両親が介護で大変な日です。
どうやら折り返してきた前に近くの皮膚科に連れて行ったところだそうですが、そこから帰ってきたときに父(70)が庭でなにかして手を結構ざっくりいったそうで。

男性は多いと思いますが、父は血が苦手で、現役時代のお話でいうと、広告代理店でデザインの仕事をしていたので、あの頃は毎晩泊りや朝までがザラで、その日も職場に一人いたときに指いっちゃったそうで、もう40年とか前の話だと思うので、状況は今より過酷ですよね。
でもそのまま倒れたらいけない、という気持ちだけはしっかり持っていたようで、必死に救急箱を探して、几帳面なのでキチッと止血してから失神した…という話。

父がけがすると毎回それがよぎって心配したのですが、母曰く歩いてもいける近くの内科クリニックに車で行ったと。

他にあいてなかったっていうけど…しかも車は車で心配だな…まあ運転中に失神しないと思うけど。昨日も例にもれず暑かったようなので、その中血出しながら歩くのも危険ですしね。

結局その後、やはりそこでは手に負えない傷ということで、近隣で受け入れてくれる大きい病院に紹介状を書いてもらい、車を置かせてもらってタクシーで行ったそうです。
まあ…縫ったよね。いたそ~(>_<)

で、今日は今日で私が父のクルマの6か月点検の予約入れていたので、それに行く前に内科クリニックにお礼がてら伺って、傷口の確認に紹介先の病院へ…という予定だったようですが、祖母が朝から少し発熱があったようで下がらないから迎えにきてほしいと。

結局車の点検以外はして、その後祖母の介護にまた戻っています。

 

では、今日は私の家族についてもう少しお話したいと思います。


今の市には2歳のときに引っ越してきて、30すぎに一人暮らしをしてるのも市内なので、ずっとこの市に住んでいることになります。
一番多いときは、
曾祖母・祖父・祖母・父・母・叔父・私という7人の大家族のこともありました。
それも数年で、私は幼少期から部屋をもらっていたので、きっと私が生まれたのをきっかけに叔父は一人暮らしをしたのでしょう。

祖父は、戦後参議院で勤め上げて、勲章も何度かもらった人です。
祖母は、典型的な昭和の専業主婦。子供の頃は割烹着姿が普通でした。
父はさきほど書いたように、広告代理店のデザイナー。
母も私を生んで半年もしないうちに職場復帰した仕事好き人間で、長年家電などの販売職に就いていました。

なので、小さいころから私はいつも祖母と一番一緒にいて、とってもおばあちゃん子になりました。
だからおばちゃんがいなくなるなんて考えられなくて、この歳でもまだ一緒にいられることが本当にうれしいです。

 

祖父がよく手術や入院をしていたのは私も覚えていて、子供のころは祖母と一緒に病院に行ったりよくしていました。まあ全般的におなか系で、とった胆石の石もみたな。
でも、これだけはある程度の歳になってから聞いたのですが、私が生まれる前からあとかくらいの時期に大腸がんを克服していたそうなんです。
浅くみつもっても40年は前で、大腸がんを経験して、ストーマなどを使わず89歳まで生きたのはすごいなーって思います。

たぶんこの時の傷や胆石の傷なんでしょうが、当時はだいたい開腹ですから、イレウスでよく腹痛を起こして救急車を呼んでいましたね。

一方、祖母は認知症を発症するまで病院とは無縁の健康体、かなりガンコもので手のかかった祖父を見送ったあと、よく聞く燃え尽き症候群的に認知症にならないかなと心配したのですが、そのタイミングではならず、どれくらいたってからでしょうか…今から10年前はすでに私が通院に付き添っていたようなので十数年くらい前に私が「ただの物忘れじゃないんじゃないか」と気になり、病院に連れていってわかりました。

当然、当初は進行を少しでも防ぎたいというのが目的だったので、数年服薬を続け、ゆるやかに進行しながらも足腰はしっかりしていて本当に家族に手をかけない人でした。

実に、97歳まで自力歩行し夜のトイレさえ一人で行っていたのですが、ある日転倒して骨折したと昨年の早春に連絡がきて、すでにコロナ禍に入っていたのでそれきり1か月以上会えなくて当初は本当に不安でしたが、だいぶすすんでいた認知症が功を奏したというか、本人にとっては家族と離れていることをわかっているような、いないような感じでなんとかリハビリもこなして、98歳にして寝たきりにならず家に帰ってきました。

しかし、安心したのもつかの間、ここで認知症が悪さをし、本人は、骨折・手術・入院・歩行できないことすべてわかっていないので、ちょっと目を離したすきに転倒して逆側を骨折。再度の入退院を経て、最終的に家に帰ってこれたのは夏になっていました。

でも!両足折れて完全に車いすで、要介護5ですけど、いまや我が家で一番元気に戻ったんじゃないかと、それくらいのパワフルおばあちゃんです。

父も、定年まではほぼ健康体…いえ、実際は忙しい年代ですから、生活習慣病のありそうなからだをしていましたが、こちらも幸い病院のお世話にはなりませんでした。
唯一あったのが、50代のころですかね、心臓の先天的な障害WPW症候群の発作がたまに出るようになり(それまで本人も一切しらず)、1~2泊程度の入院でカテーテル処置を受けたことくらいです。

その後60で定年退職し、落ち着いてきたのでちゃんと健康診断も受けて…という中の「PSA検査」でひっかかり、前立腺がんがわかりました。

前立腺はがんの中でも非常に予後がよく、年齢や状況によっては無治療というのもあるくらいですが、62歳というのはまだ若いです。
手術も十分耐えうるし、全摘手術を受けてもらうことにしました。

このときも、家族ががんになった者の立場としてブログを書いていましたが、父のがんの告知を受けたときのほうが、今回の自分のときの何倍もショックを受けました。

職場で昼休みにメールでの連絡で知り、「晴天の霹靂」とはこのことだと思ったのが忘れられません。
今思うと知識が今より全然なかったことと、やはり自分がいなくなるかもしれないことより、大切な人がいなくなるかもしれないことのほうが何倍も怖いということです。

恐怖とショックは、すぐに父の敵と戦う力に変えました。

父は私とタイプが違うので、私がいろいろ調べて、本人が不安にならないような情報だけを伝えてあげ、治療については、可能で必要性があれば重粒子線などの先進医療、最善の治療を受けさせたいと思っていました。
結果として、ちょうどその年の春に先進医療から保険適用に変わった(そのときは前立腺のみ)ダヴィンチという機械を使ったロボットでの手術を、日本での第一人者である東京医大病院で受けることができて、その後再発転移なくもうすぐ10年を迎えようとしていたところでした。

 

こんな一家の、一人娘が急性骨髄性白血病になった…そんなブログなわけです。